今日は、私達姉妹も実家から巣立った後の母のお話です。健康的な食生活を送っていたはずの母は、50代前半から次々と色んな病気を患うことになりました。高血圧から始まり、目の病気や指定難病、そして癌にも侵されることとなりました。
過去の記事はこちらです▽
玄米中心の健康志向な食生活(1)幼少期から続けたら体はどうなる?
私の子供が3歳になってすぐ、母は癌で亡くなりました。60代前半でした。
母が癌と判明して、東洋医学のクリニックの指導のもとで厳しい食事療法とそのクリニックの診療で治療していくと聞いたときは唖然としました。それは西洋医学には一切頼らないという偏った治療法。
東洋医学の世界では権威と呼ばれるようなかなり有名なその人に診察してもらうために、母はわざわざ遠く離れたそのクリニックに毎月通っていました。
病院での通常の診察も受けるべきだと父にも母にも話をしましたが、その人を信じて治療しているから大丈夫だと、西洋医学の診察だけでも病気が悪化すると言われたと言って病院に行くことはありませんでした。
私は東京で仕事と育児と離婚調停中。2歳の子供を連れて飛行機じゃないと帰れない実家に何度も戻ることはできず、どうすることもできないまま月日が流れてしまいました。
その後の母は安定しているかのように思えましたが、母に会って数か月後に私が実家にかけつけた時には別人のような母がそこにはいました。最終的には私が救急車を呼んで総合病院へ。
入院した時の母の安堵した表情を今でも忘れられません。母の癌はすでに末期になっていて余命3ヶ月と医師から告げられました。
母は厳しい食事療法の最中に、「元気になったら甘いパンをたくさん食べたいな」と語っていました。本当は、甘いものがなにより大好きな母でした。
入院して数週間後が母の誕生日だったので、病室で母の誕生日を祝おうと、前日にクリームパンを用意していました。食べられないだろうけど、ほんの一口でも味わえればと。
でも、誕生日の朝に母は息を引き取りました。余命宣告の3ヶ月を全うすることなく。入院して1ヵ月もたたないうちに。
母は、治療法をめぐって度々もめていた私と父のことでとても心を痛めていました。
何度も母にも確認しました。「本当にお母さんはこれでいいの?」と。
「お父さんの信じていることを私も信じたい。それが夫婦だから。それが家族だから。私は東洋医学で絶対治すから大丈夫。お願いだからもうお父さんに何も言わないで。自分のことで家族が言い合うのは辛いから。」
それが母の思いでした。母はそれまでもずっと「父が信じていることを信じる」人生を歩んできました。でもそれは、決して母自身が選んで信じて進んでいる道ではなかったのように思います。
『これが私のお父さんへの愛情表現。これでよかったんだよ。』
それは母が亡くなる前に、父がいないときに私に言った言葉でした。
私には全然分かりません。どうしてそれが愛情表現になるのか全然理解できません。お母さんは本当はどうだったの?どうしたかったの?もしもっと早く私が実家に来ていれば。もしもっと早く私が無理やりにでも入院させていたら。
私は医者でも専門家でもないので、どの治療が正しかったかなんて今でも分かりません。東洋医学がいい悪いの話でもありません。西洋医学でも母を助けられなかったかもしれません。東洋か西洋かなんてどうでもいいことなんです。
確かなことは、一部の治療法だけを盲信し、それ以外を排除するのではなく、すべての可能性を受け入れるべきだったということです。
でも、私は母を救い出すことはしなかった。母がこれでいいというから、もう何も言わないでというから、自分が東京での生活でいっぱいいっぱいだから、とそんな言い訳めいた理由で。
後悔してももう遅い。私がいくら「あの時」と悔やんだところで、母は亡くなって今はもうこの世にいないのが現実で、それはもう取り返しのつかないこと。
母が亡くなって時折思うことがありました。
母の人生は、幸せだったのかな。
一生答えの出ない問いを考えずにはいられませんでした。
だけどもうそんな不毛な問いを考えることをやめることにしました。母が幸せだったかは誰にも分かりません。
私は母から生まれ、ここに今生きている。その私から子供が生まれ、ここに今生きている。
それだけが全て。
7年たって、ようやくそう思えるようになりました。
「心配ないよ~お母さん、私たちは幸せだよ~」と心から思えるようになりました。
私と子供の今は今しかありません。過去に立ち止まらず、未来にばかり目を向けず、今を大事にしっかり生きていきたいです。