風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

心を病んだ母との確執。小学生の私は心のよりどころを失う(1)

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私が小学生になる少し前から、母の心は少しずつ壊れていきました。今では母が病んでいたんだと理解できますが、その当時の私は、別人のようになっていく母を受け入れることができませんでした。

 

母にとっても家は監獄

私の地元は、父も母も生まれ育った場所ではありません。身内も友達もいない場所に、父の仕事の関係でその土地に住むようになったのです。

 

私の祖父母の記事でも少し書きましたが、私が小学高学年まで、曾祖母と同居をしていました。曾祖母はとてもキツイ人で、母をいじめ倒すので、私は大嫌いでした。私とは全然接点がなく、かわいがってもらった記憶もありません。 

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父は曾祖母に育ててもらった義理と恩があるので、曾祖母の言うことは絶対。どんな理不尽なことでも、いつでもどんなときでも100%曾祖母の味方。曾祖母が黒といえば黒、白といえば白。そんな感じでした。

 

父と曾祖母のW攻撃に、一人ぼっちの母はどんどん追いつめられていきます。帰る実家もない母には逃げ場所はなく、誰も助けてはくれず、一人でただ耐えるしかありませんでした。

 

神様レベルの父と曾祖母。泣いているとさらに攻撃されるので、隠れてお風呂場で泣いていたりトイレで泣いていたりしていた、というのは社会人になってから母から聞きました。

 

人は環境で人格そのものが変わることがある

幼い頃を思い返しても、母が泣いていた記憶の方が多いです。小学生になるころには母が笑っていた記憶は全くありません。いつも眉間にしわを寄せて険しく怖い顔をしていました。私に優しく微笑んでくれた母はもうどこにもいませんでした。

 

そのうち。私が学校から帰ってくると、窓際に座って何やらぶつぶつ言いながらずーっと手相を見つめていたりするように。私が話しかけても聞こえていない状態。 はっきり言って、怖い。の一言です。

 

そのうち。突然ヒステリックになってわめき散らして手が付けられなかったり、突然陽気になって歌を歌いだしたり。たぶん躁鬱状態だったんだと思います。

 

母曰く、そもそも歌を歌いだしたきっかけは、泣くことをこらえるため。泣いたらまた怒られるから必死で歌ったと、私が社会人になってから聞きました。どうりで。聞いてる方は全然楽しくないわけです。歌っている母は狂気じみていて、ただただ怖かったです。

 

そして。とうとう母は私達を守ることをやめました。父側についたのです。神様じゃなくて、悪魔が2人になったのです。もう守ってくれる人も助けてくれる人もいなくなってしまいました。信じていた母にも裏切られたのです。

 

私は泣きながら何度も母に助けを求めましたが、母はこう言って私を拒絶しました。

 

「お父さんを怒らせるあなたが悪い。何もかもあなたが悪い。」

 

私は、逃げる場所も心のよりどこりも完全に失いました。

 

姉の選択した道

姉はどうしたかというと。私と姉はかなり歳が離れていて、姉がとった自己防衛手段は、『徹底的に父の思い通りになる子供』になることでした。正当な判断です。

 

そして姉は見事、家でも外でも称賛される『優等生』という揺るぎない地位を獲得したのです。やろうと思ってできることではありません。姉も必死だったのでしょう。父に認められるということは、必然的に母にも認められるということです。

 

立派な姉となり、そのことが私と姉との間にも大きな軋轢を生むことになります。そして、徹底的に父の思い通りになる子供を演じ続けたことが、その後長きにわたり姉を苦しめることにもなります。それは私よりもはるかに根深い呪縛として。

 

取り残される私

とても分かりやすい展開ですが、私は優等生にはなれませんでした。何をやってもダメで。要領が悪くて。そんなところがかわいいなんて思ってくれるはずもなく。なので目に見える攻撃は全て私に集中することになりました。

 

父にひどい目にあわされていても、見ているだけの母。父に罵倒されていると、一緒になって罵倒する母。私を憐れむような顔で母の口から発せられる聞きたくない言葉の数々。

 

「どうしてあなたみたいな子ができちゃったんだろう。失敗作だね。かわいそうに。顔も頭も性格も何もかもいいところは全部お姉ちゃんにすいとられて。カスしか残ってないじゃない。」

 

カスって!改めて字にすると笑えます。いや、笑えない。姉妹兄弟に言ってはいけないワードNO.1ではないでしょうか。人って同じ環境下にいるものをつい比べたくなる生き物なのでしょうか。こういうことって言われた方はずっと覚えてますからね。

 

しかもしかも。自分で生んでおいて、私の顔がドぶすみたいな言い草ですが、そこそこフツーだと思いますよ。母だってまともだったときは「かわいいかわいい」って言ってくれてたのに。

 

ことあるごとにこんなことも母はよく呟いていました。

 

「あなたじゃなくて三人目の●●●が生まれてたらよかったのに。(三人目は男の子でしたが、妊娠中にお空へ)そしたら私はこんな思いをせずにすんだのに。こんなことにはならなかったのに。●●●さえいれば。●●●さえいれば。●●●さえいれば。」

 

名前も決めていたらしくて、何度となく窓の外を見つめながらその名前を呪文のように連呼されて、今でもしっかり覚えています。

 

これを聞いて私が思ったことは。●●●がもし生まれてたら、●●●がものすごく大変だっただろうな。きっと過干渉で溺愛されて期待されまくって潰れされる。と冷静に予測する小学生でした。

 

こんなこともありました。夕食の手伝いをしようと台所へ行くと、

 

「どうしてあなたがくるのよ!!私はお姉ちゃんを呼んだのよ!!あなたが触ったら皆に病気がうつるんだから触らないで!!あっちに行って!!キーキーキー!!」

 

え?病気?いやいや、病気なのは私じゃなくてお母さん、あなたですよ。私は何のウイルスも持ってませんでしたが、母は私が病気だと思い込んでいた時期があったのです。私が触ったところを気が狂ったように拭いたりしてました。本当に失礼な話です。

 

私はとにかく要領が悪すぎて、一歩歩けば父の地雷を、もう一歩歩けば母の地雷を踏むような生活を送っていました。

 

どちらの地雷も踏まなかった日は、『私やった!できた!』と布団の中で喜びをかみしめるような健気な小学生でした。(健気とか自分で言っちゃう)

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       ジバニャン&ガイムといううるさいコラボ。いちごの量どうした?

 

人格の崩壊

こうして、母はすっかり変わってしまいました。もはや別人です。父に魂を売ることでしか、母は生きていけなかったのでしょう。正常な心のまま父と一緒に暮らしていくなんてできなかったのでしょう。

 

父と一緒にいるのも限界。でも行く当てもない。お金もない。子供もいる。でももう無理。人間は追いつめられて究極な状況下におかれると、心が壊れて人格すら変わるのでしょう。

 

皮肉なものです。変わる変わると言って何も変わらなかった父。その代わりに、生きていくために母は自分の心を捨て、すっかり変わってしまった母。

 

そこから全てが絶望に変わりました。自分の身は自分で守るという、家族という名のうわべだけの関係がその先ずっと続いていくことになるのです。

 

あぁ・・記事も続いてしまう・・・。元気な方は続きも読んでください。

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