父との今回の成り行きを振り返って、前から父に対してあった疑惑がさらに色濃くなりました。 実は、父はある種の精神疾患を持っているのではと疑ってはいます。
予定通りじゃないと気が済まない
そう思う理由はありすぎるのですが。分かりやすい例としては、絶対的な分刻みのスケジュール管理ですね。
父は昔から毎日の予定をきっちり細かく立てて、それを遂行していくのを喜びとしているような部分がありました。なので、自分の思い通りに予定が進まないと激高することがたびたびありました。
どんなことがあっても父のたてたスケジュールは絶対です。 これが子供の頃に父と外出しても全然楽しくなかった理由のひとつでもあります。
ここは5分、あちらは10分、何分にはここを出る。時間を調整するために早足で歩く父を全力疾走で追いかけていた記憶があります。
万が一にでもひとつがズレると全部がダメになるような状態になります。そうなると怒りの矛先は私に向かうので、こちらも必死です。子供であろうとなんであろうと、父のスケジュールを狂わせることは許されませんでした。
当然、毎日の生活スタイルもきっちり決まっています。予定通りであることが父の精神状態を保つといっても過言ではないくらい。
出張は日常ではなくなりますが、それもまた”出張モード”というのがあるようです。自分が事前に決めた予定通りにコトが進めば満足なのです。
予定を決めずに適当に一日を過ごす、というのは休日であっても父にはありえないことです。
今では少しはマシになりましたが、時間通りというのはやはり変わりはありません。父に子供を会わせる時は、つい父の顔色を伺ってしまい、子供を急がせてしまったり父のペースに合わすように子供をコントロールしてしまっています。
こればっかりは体にしみついた癖のようで、父がイライラし始めるのを瞬時に感じ取ってしまいビクビクしてしまうんですよね。
早期に対処ということで、子供が何をしていようと『そろそろ行こう。おじいちゃん待ってるしね。』と子供よりも父に合わせてしまう自分がいます。
それほどまでに予定が狂うとひどい目に合わされたという経験があるのでどうしてもそうしてしまいます。
こういった父の特性?はなんとなく何かしらの脳の構造上に問題があるのではと勝手に思ったりもしています。
他人の気持ちをイメージできない
私は父とは正反対で、予定をきっちり組むのが苦手です。適当万歳です。父と別荘で会うときも、いちいち出かける場所を決めて行ったりしません。
別荘周りを何をするでもなく適当に遊ぶ1日があってもいいと思っています。適当に散歩して適当に別荘の中でゴロゴロして。
それが父には理解ができないようで、『子供のために事前にどこに連れて行くかちゃんと調べていないなんて母親として失格だよね』と、去年に子供の前で言われたこともあります。
私は笑って流しましたが、『”子供のために”連れてってやってる!』感を全面に出されたお出かけなんて子供にとってはいい迷惑です。
私が子供の頃に父とお出かけしたときは必ず『お父さん、今日は連れて行ってくれてありがとうございました。』って言わないといけませんでした。全く楽しくもないのに。そもそもこちらから『連れてって』ってお願いもしてないのに。
一度、この『ありがとうございました』をうっかり忘れてしまい、大変な目にあったことがあります。小学高学年だったでしょうか。その時は土下座して許しを請いました。
それは父が『こっちはお前の為に事前に調べて連れて行ってやったんだからその対価としてお礼を言うのが筋だろう』という自分の大事な時間を子供のために犠牲にしている、という感覚があるから出てくる要求だと思います。
滑り止めの大学に合格したときにお礼を要求されたのも、同じように『自分の時間を割いて受験大学を調べた結果、合格したのだからその対価としてお礼を言うのが当たり前』という感覚があるのだと思います。
要は、自分以外の人にも”気持ち”というものが存在することがそもそも分かっていないということです。なので、計り知ることはもちろん計り知ろうとする感覚も欠如していて、自分のことしか考えることができない脳なんだと思います。
山登り。いい風が吹いてました。
その他の疑わしい例
他にも例を挙げるとキリがないですが、ちょっと笑えるおまけな例としては、見たいテレビは全て録画した上で、2倍速で見るというところでしょうか。
理由は『時間がもったいない。スケジュールがつまっている。』だそうで。映画はもちろん、朝ドラもまさかの音楽番組も2倍速です。ある意味恐怖です。それ、聞く意味あんの??と心の中でひたすら突っ込んでいます。
何か大切なものが欠落している
ちゃんと調べたわけでもないですし、本当に勝手な素人の考えでしかありません。でも父は脳の何かが決定的に欠如している、と思っています。先天的なのか後天的なのかは分かりませんが。
そうであるから仕方ないと思うような思わないような。ただはっきりしていることはひとつだけあります。
もしも私と子供とこの先会えなくなったとしても、父は悲しまないということ。後悔もしないということ。
例えば一人ぼっちになっても、もっとこうすればよかったああすればよかった、と自分を顧みることは絶対にないということ。そういう感覚自体が父にはないということ。
死ぬ瞬間でも自分のことだけを思って亡くなる人だと思います。ある意味幸せというか。そういう人なんだと思います。
冷たいようですが、というか冷たいですが、私に父の老後の面倒は見れない、と今さらながら確信しています。
私は今までに一度も父を慕ったり、大事に思ったり、そもそも親だと思ったことがありません。子供にとってのおじいちゃん。それだけです。
子供のおじいちゃんでいてくれないなら、いらない人です。そんな私もどこかなにかが欠如しているんだろうなと思っています。