今もムキー!っとなることはあります。田舎でのんびり暮らしているから全くイライライしないというわけではありません。でも、東京にいた頃よりも格段に怒りの沸点は高くなりました。
優しくて穏やかなお母さんになれない
子供が年中児に「自分でできることを見つけてやってほしい」とお願いをして、その点ではうまくいきました。
だからといって、母と子の関係がいつもうまくいっていたわけではありません。なんせ私の余裕のなさといったら。子供のちょっとした言葉にムカッ。ちょっとした行動にイラッ。
沸点が低いので、「もう!もう!もう!なんで!なんで!なんで!」とつい口からこぼれ出る言葉の数々。子供の存在を否定するような言葉は言ったことはありませんが、内容はともかく言い方がとにかくキツかった私。
子供に危ないからやらないよう注意したのにまたやってしまったときとか。
理想「これをすると、こんなふうに危ないからもうやめようね。」
現実「え?なんで?私言ったよね?!危ないからやらないでって言ったよね?!なんでまたやるわけ?!クワッ!!」
こんなふうに、子供を追い詰めるような言い方をしてしまっていました。子供は「ごめんなさい」とシクシク・・・。
そのたびに『どうして優しくて穏やかなお母さんになれないんだろう』と自己嫌悪に陥ったり、『怒られ過ぎたのが原因で犯罪者になったらどうしよう』と将来が不安になったり。
分かっていてもその時になるとそんなに簡単に自分をコントロールできません。『またあんなキツイ言い方をしてしまった』と毎回後悔してしまう私。
夜毎の儀式
どんなにぷりぷりガミガミ怒っても、必ず毎日子供にやる儀式がありました。それは寝る前にギュ~っと子供を抱きしめて、「大好きだよ。あなたが私の子供でよかった。ありがとう~。」と必ず言葉にして伝えること。
怒りすぎてしまったときは「あなたがやったことはいけないことだけど、私の言い方もよくなかった。キツイ言い方してごめんなさい。」とギュ~としながら謝ることもありました。
寝る直前とかに私のぷりぷりが始まってしまうと、ギュ~とできない自分がいるのですが、そんなときは子供が「寝る前はちゃんとギュウギュウしないといけないんだよ!ウエ~ン!」と抱きついてきて、なんとか抱きしめることができるというどこまでも大人げなかった私。
例えその時に「腹が立って大好きなんて言いたくないっ」と思っていたとしても、無理やり「大好きだよ」と口にすることで、自分の気持ちも静まることもありました。
気持ちあっての言葉じゃなくて、言葉あっての自分の気持ちの再確認のようなものでしょうか。静まらないままのこともありましたが、言動で表すことが大事だと思っての儀式でした。
この儀式はそれからずっと9歳の今も続いています。子供にとっては精神安定剤のようになっていて、ワサワサした気持ちになっていても、これをすると心が落ち着くようです。
儀式の結果
その儀式があったからなのか、『お母さんはどんなに怒っても僕のことが好きなのは変わらない』という確固たる自信のようなものは子供の中に芽生えたようでした。
その結果、小学生になってからどうなったかというと。私がたいしたことじゃないことで、いつまでもぷりぷりイライラ怒ってるとこんなことを言うように。
「お母さん、そんなにぷりぷりしないで。お母さんは笑ってる方がかわいいんだから。ねっ!」
母、あしわられる。
思わず笑ってしまう私。こ、これは、いいの?!いいのか?!
命に関わるようなことで私が一喝するようなときは、さすがにこんなことは言いません。自分がやってしまったことにショックを受けて泣いてしまうほどなので事の重大さの違いは分かっているようです。
今のところ私に対して茶化したりバカにしたりする感じはありませんが、怒っている内容が重大か重大じゃないかを私の怒り方で分かっているんだと思います。
ぷりぷりガミガミもほどほどにしないと、そのうち私の言葉全てが耳にはいってこないようシャットアウトされてしまうようになると困ります。
言霊を意識する
将来、子供にパートナーができたときに、パートナーの話を聞き流すような人にはなってほしくありません。相手の言葉に耳を傾け、向き合える人であってほしいと思います。
そのためには、子供に一番言葉を聞かせているであろう私が、『言葉の大切さ』を肝に銘じなければいけないと心底思っています。
田舎に移住して私のぷりぷりガミガミもずいぶんおさまりました。全くなくなることは難しいと思いますが、同じ内容でも『言い方』『伝え方』で印象は全く変わってきます。そのことをまずは意識できるよう過ごしていきたいと思います。