卒業式ではらはらと泣く女の子。青春ですよね。美しいですよね。でも、私は昔から卒業式や引越などの人とのお別れで泣いたことがありません。なにがそこまで悲しいのか分からないのです。
泣かない母親
あれは子供が卒園式の直前のお別れ発表会に参加したときのことです。保護者からは、子供達に歌をプレゼントしました。感動的な演出とともに、ママ達の歌にも熱がはいりました。
歌い終わって周りをみると・・・ママ達みんな泣いてる!えっ?そもそもこれって卒園式でもないよね?とびっくりする私。ひとりだけ“素”の私は冷静にママ達を観察。そんな私を観察していたのは、私の子供でした。
泣いてほしい子供
発表会のあとに子供がこんなことを。
子「お母さんだけ泣いてなかったね。どうして?」
母「えっ?!どうして?!(まさかそんなチェックをしてるとは)」
子「ママみんな泣いてたのにお母さんだけ泣いてなかった。お母さんは悲しくないの?」
母「泣いてほしかったの?(まるで冷たい母親みたいだな)」
子「・・・うーん、うん。」
母「私はお別れがそんなに悲しくないんだよ。毎日は会えなくなっても会おうと思えば会えるから。お別れした分、次に会うのが楽しみだし。」
子「僕はお別れが悲しい。僕は泣いちゃう。」
母「それでいいと思うよ。どう思うかは人それぞれであなたと私は違う人間だもの。どちらがいいかじゃないんだよ。悲しいと思うのも悲しくないと思うのもどちらでもいいんだよ。一緒の気持ちにならないといけないなんてないんだよ。」
子「うん。」
母「それとね、泣いてないから悲しくないっていうのも違うんだよ。ものすごく悲しいけど泣かない人だっている。泣いてる泣いてないだけで、その人の気持ちは分からないんだよ。」
子「そうなんだ。」
母「そうなんだよ。色んな人がいて色んな気持ちがあるの。みんな違う人間だからね。」
子「分かった!お母さんは泣かなくていいからね!」
え?う~ん、まあいいか。とこんなやりとりで終わりました。まさか子供が泣いてほしいと思っていたなんて。お別れ=悲しい=涙という方程式が子供の時にすでに出来上がっているものなんでしょうか。
子育ての卒業
子供には偉そうなことを言った私ですが、保育園のママ友にはこんな質問をしました。
私「みんななんであんなに泣いてたの?」
ママ友「へ?なんでって。色々思い出すでしょ?子供が入園したときはあんな小さかったのに、もう卒園するくらい大きくなってって。それに先生とお別れするのも寂しくない?」
私「成長したなって思うけど、卒園だからって別に特別な感動はないかも。だってこれから小学生でまだまだこの先もあるんだよ。卒園なんて通過点としか思えない。先生とお別れも全く寂しくない。そもそもそこまで親しくもない。」
ママ友「言い切ったね・・・。じゃあ、いつなら泣けるほど感動するんだろうね。小学校卒業?中学卒業?高校卒業?いっそ成人式?」
私「(想像してみて)・・・どれもただの通過点かも。卒業式だからって感動する自分を思い浮かべられない。成人式も全然。」
ママ友「いつか泣くほど感動することあんの?!・・・」
私「うーん。あ!子供が結婚するときには本当に私の役目が終わったって泣く気がする!」
ママ友「なるほど~。本当に子育て卒業のときなのかもね。」
ママ友とのこんなやりとりで、自分がそう思っていることに気づきました。人との別れにも自分の卒業式にもドライでしたが、子供の卒業式にもドライだったようです。
子供の日々の小さな変化に感動することはあっても、普通の保護者なら感動すべき節目の場面では全くもってピンとこない自分がいます。感情移入ができないんですよね。
子供が共に人生を歩むようなパートーナーを見つけたときに、やっと初めて「ああ、こんなに成長して。」と感極まるような気がします。周りが引くくらい嗚咽するかも。
寂しいとかじゃなくて、本当に心底ほっとしての涙だと思います。子供がパートナーと一緒に生きる道を選んだらの話ですが。
卒業式で泣かない女にも感情はある
昔は泣いている友達がかわいく思えてうらやましくも思えました。どうして私は悲しくないんだろう?泣けないんだろう?私って冷たいの?と思ったこともあります。
でもその時も私にとっては人生の通過点でしかなく、悲しいとか悲しくないということじゃなかったのかもしれません。
卒業式で泣かないからといって、血も涙もない冷たい女ではありません。卒業式で泣かなくてもアニメで泣くこともあります。それなりに感情もあるんですよ。