風のある暮らし

東京から見知らぬ田舎へ。更年期の母ひとり、思春期の子ひとり(中学男子)の暮らし。

心を病んだ母との確執。中学・高校は暗黒の時代でした(1)

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中学・高校のときも、家族でのいい思い出はひとつもありません。家で笑ったこともないですし、自発的に言葉を発することもありませんでした。常に”無”でした。表向きは反抗期と同じようで、実際は全く違う種類のものだったと思います。

 

このお話はこちらの続きになります。

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私の格付け

私は幸か不幸か、超学歴主義の父と母の期待をことごとく裏切り続けたので(主にというか100%学力面で)、『〇〇家の恥』という揺るぎない地位を獲得していました。

 

姉とは小学生の高学年あたりから高校3年生まで一言も口を聞かない仲に。同じ家に住んでいるのに、8年間くらい目も合わせませんでした。

 

影では父の不満を言いながら、父の前では常に完璧ないい子ちゃんで、うまく立ち回る姉を『あざとい』と当時の私は姉に対しても嫌悪感を抱くようになってしまいました。

 

姉が完璧な分、全ての攻撃は私に集中するわけですから。そして母同様、見て見ぬふりで私を助けてくれるわけもありません。唯一の仲間からも裏切られた気分でした。

 

誰も助けてくれないんだ。みんな自分さえ助かればそれでいいんだ。そう思い知らされました。

 

相変わらずの父。父のコピーの狂った母。父の言いなりの優等生の姉。どいつもこいつもあの男に魂売りやがって!(言葉遣い、失礼します)と家族全員を陰でひたすら呪っているような女子中学生でした。

 

髪型はポニーテール(懐かしい!)でかわいかったんですけどね。家での脳内は呪いでいっぱいですから。でも学校へは笑顔で行ってましたから。私も学校では『いい子』でしたから。人は見える側面だけで判断できません、ほんとに。

 

家族としての機能が全く働いていないのに、体裁を取り繕って、まるで素敵な家族であるかのように偽って。ああ、気持ち悪い。嘘ばっかりの家族。こんな家族いらない。壊れればいい。なくなればいい。いつもそう思っていました。

私は父とも険悪なのはもちろん、母との対立も激しく、『お前がいると我が家の秩序が乱れる』ということで、高校1年のころには、私だけ一人暮らし案まで浮上するほどでした。

世間体もあって結局はボツになりましたが。それほどまでに私は家で浮いた存在でした。

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     キャラ弁にも飽きたので・・・週末に焼いたふすま入りの発酵不要のお手軽パン。

 

呪いから軽蔑へ

『あんたなんか生まなきゃよかった!(実際は×10倍のひどさ)』なんていう母の言葉は日常茶飯事でしたし、もうそのころにはそんなNGワードなど痛くもかゆくもなく。

『私だってこんな家に生まれてきたくなかった!(実際は×10倍のひどさ)』と言い返すほどに私は成長したし、シクシク泣くだけの小学生ではもうありませんでした。ある意味、あの家で私が一番まともだったのではないかとさえ今は思います。


相変わらず母の精神状態は不安定で、感情も乱高下していました。母の気分がルンルンのときは、私の高校のお弁当のために父に隠れてこっそり白米を炊いてくれたりもしたのです。うちは玄米菜食一家だったので。

 

でもその何分後かにはヒステリックになって罵倒されることもあるので油断なりません。数分前までルンルンだったのに、急に『あんたのせいよ!白米なんて炊きたくないのに!キー!!!!!』なんてこともしょっちゅう。

 

でも、そんな母の感情に一喜一憂することもなくなっていました。中学のころは両親への憎悪は、日々頭の中が呪いでいっぱいなほどすさまじいものがありましたが、高校2年生あたりになると、家族に対しては軽蔑の思いしかありませんでした。

 

そんな私と両親に転機が訪れます。それは大学受験という魔物です。

 

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次終わるかな、終わらないかな・・・続きます。

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